“名古屋じいちゃん”もそうだが、自分の父親でさえも、実際のところはどんな人物だったのかというのがわからない。
親子なんて、そんなものなのかも知れないな。
ただ、自分の父親の場合は、夫婦間でおちょくるような発言をしてはイラっとさせるというイメージはある。
その言葉たちが鮮明に埋め込まれていて、時折アイータに使ってみたりするが、イラっとさせるにはなかなかの効力を持っていて素晴らしい。
今日はそんな親父の命日。
先日、十七回忌の法要を済ませたけど、やっぱり“今日”という日は別モノなんだ。
長い時間が経っても、毎年6月2日は空だったり、川だったり、人の流れだったりを何となく注視してみる。
あたりまえだけど、あの日と同じだったり、違ったりするんだわ。
小梅もやがては父親の人物像を探したりするのかね。